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「奇跡の館」
私は生来迷信などを信じない人間ですが、この一竹美術館を建設するに当たって私の身辺に起こった不思議な現象を思い返しますと「ただの偶然」では片付け切れない大きな天の力を感じるのです。
当時わずか250万の蓄えしか持ちあわせなかった私にとって美術館の建設など夢の又夢、そんな夢が実現しようなどとは思いもかけぬことでした。ところが私は全く予期せぬ天運に恵まれ、力ある多くの知己に助けられ絶景の河口湖に美術館が出来上がったのです。そして私が命を削って染めあげた作品を自由に常設展示できる場となり、又、私がこよなく愛する大自然をわが手で培い、ここに四季折々の花を豊かに咲かせて、全国からお集り下さるお客様にもお楽しみ戴ける楽園が出来上がったのです。 この美術館こそ私にとって奇跡の館なのです。

「生涯を賭けた幻の辻が花」
私が21才から2年間兵役に服し、27才で応召し、敗戦後3年間極寒のシベリアに捕虜として抑留され、31才の時ようやく復員できたのですが、暗く絶望的な虜因の苦しみを長く味わい帰還後も「一度は捨てた命」という想念に駆られ、せめて残された半生は20才から憧れつづけながら生活に追われて手をつけられなかった「300年前に忽然と消えうせた」という幻の辻が花染めの研究に打ち込んでみたいと思い詰めるようになったのです。
甘い言葉で表現すればそれは戦争で青春を喪った男のロマンであったかもしれませんが、現実の夢は出口の無い真っ暗なトンネルを灯りも持たず遮二無二進んでゆく哀れな状態で、何が何でも自分の夢の中に描いている理想の辻が花をと狂ったように明け暮れ、数年後には時間が惜しいばかりに生活の基盤であった手描友禅さえも捨て、家族を極貧に耐えさせ、私は辻が花研究の鬼と化したのです。そして還暦を迎えた年初めて生命を削り血で染め上げた創作「一竹辻が花」を世間に発表した日の大反響を生涯忘れることが出来ません。

「美術館建設の決意」
そのころ殆ど無名だった私の作品が世の中に認められ、身に余る賞賛のお言葉を戴き、我が家にもやっと一息つける日々が戻りました。
その時、私が時流にのって作品を求められるままに手放していればかなりの資産を残すことができたでしょう。しかし私は金銭よりも我が身を削って染め上げた作品がいとおしく、作品を1点でも多く残しておきたい、お金はつつましく暮らせるだけでいく。お陰で私の手元には作品が増えてゆきましたが、蓄えはわずか250万。
しかし私の作品群は、既に日本国内ばかりでなく欧米各国からも強い要請をうけて海外での展覧会、望外の評価を受けていました。その私に降って湧いたのが美術館建設の話。私の事情を全て知慮している有力な知己は兎に角私を河口湖の現地へ連れ出したのです。翠嵐の丘陵を背にやや傾斜した赤松林に導かれ正面を見渡した私は息苦しいほどの感動を覚えました。そこには霊峰富士が光輝いて天空に聳え立ち、瑠璃色の河口湖が小波を立てて私に呼びかけるのです。ここに一竹美術館を建設する決意を固めたのでした。

「なぜかその日」
この土地の地主さんは私の支払能力など念頭にないらしく「地鎮祭は12月8日にいたしましょう」と即断即決。これが12月8日にまつわる不思議の始まりとなったのです。忘れもしない美術館建設の為の地鎮祭の前日平成4年12月7日は折あしく河口湖地方は20年振りといわれる暴風雨に襲われていたのでした。
翌12月8日も豪雨は降りやまず凄まじい天候の中で地鎮祭は厳かに終了したのですが、儀式が終わると同時にさしもの豪雨がピタリと止み霊峰富士の中腹あたりから龍以外には形容の出来ない流麗な白雲がゆったりと天に昇ってゆくのです。
「龍雲だ」人々が異口同音に叫びました。
龍神!それは母の生前に度々聞かされている巳歳生れの私の守護神で、私は幸先の良さを感じ、その日晴ればれとした気持ちでその日の帰途急にかねて訪れたいと希っていた山梨市清白寺を探すことにしたのです。
実はその清白寺こそ亡き母の生家で、母は生前故あって里帰りしたことがなかったのですが、母は清白寺がなつかしく誇らしく幼い私に色々語り聞かせたのでした。

「清白寺奇談」
清白寺を訪ねてみると今では私の血縁は既に絶え、現在の御住職は本山から派遣された方でしたが、快く招じ入れられ、寺内を御案内頂き、本堂の天井に描かれた国宝の龍の図を拝見した頃には堂内に夕闇が拡がり、御住職は大きな懐中電灯をかかげて親切に御解説下さいましたが、その龍の図の筆勢の凄さ、内に秘められた強い生命力に圧倒されて私は暫く動くことができませんでした。深い感動に浸りながらとっぷりと暮れた屋外へ出て西方を見ると既に夕焼けの色も失せている暗紫色の雲が糸のように細く割れ、鋭い三筋の光芒が私の胸のあたりを射し貫いたのです。この光景に私はその時はっきりと母の意志を感じたのです。「亡き母がその喜びを私に伝えようとしている」と・・・。
その夜晩く帰宅した私は、仏壇を開け母の古びた位牌を手に取り裏返したとき、全身に戦慄を覚えました。
12月8日!この日こそ母の祥月命日だったのです。
がむしゃらに走りつづけてきた私は、この大切な日さえ忘れていたのでした。

「普賢菩薩は母、嬰児は私」
私は姉と二人きりの姉弟で、私は両親の特に母に大切に育てられ、私は80歳を越えた今日でも母の掌の温い感触を覚えています。僅か250万の所持金しかなかった私が今日一竹美術館を建て、皆様と共に愉しませて頂けるのも母の慈愛のお陰と感謝せずにはいられないのです。
ある時私は印度を旅して、ある仏師に出会い私の守護神と聞く普賢菩薩と嬰児を抱いた女人像の2体を彫刻して下さるという佛縁に会いました。
この菩薩像こそ今は涅槃に住む母の姿であり、嬰児は私です。
私はこの2体の像を美術館の背後の清水の湧く小さな洞窟の傍らに安置し、1999年11月8日に開眼式を行いました。
加えて、母の供養と致しましてモデルを使って、私独特のショーを1999年11月8日、9日の2日間、美術館中庭で披露致しました。庭のもみじも深紅に色付き、誠に美しい舞台となりました。
平成11年の祥月命日をその開眼の日にと考えたのですが、河口湖の12月8日はあまりに寒く御来集下さる方々に御迷惑と存じ、法要を一ヶ月繰り上げて11月8日を慈母祭禮の日と定め、執り行いました。

今後、美術館の庭の四季折々の自然の美を生涯苦労の多かった母に捧げ共に楽しむつもりです。
80歳を過ぎても母は恋しく甘えたい。優しい母は私の意図を汲んで祥月命日を一ヶ月繰り上げた事を笑って許してくれるでしょう。

1999年12月吉日
久保田 一竹

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